瀧と三葉は救われてはならない。 ――『君の名は。』 エンディング考

新海誠監督の最新アニメーション作品『君の名は。』のエンディングに関する記事です。ネタバレがあります。


秒速5センチメートル』との比較

君の名は。』は、男女が出会って、恋をする、そしてその恋を始めるための物語です。

本作品は新海誠を知らない人、それどころか、普段あまりアニメになじみのない人でも楽しめる作品に仕上がっていたと思います。
新海誠を知っている人は、それが過去作品『秒速5センチメートル』と似た構図を取っている、という点に着目してこの作品の語っている人が多かったですね。

秒速5センチメートル』の意識、出会いと別れ。 

秒速5センチメートル』では、初恋と別れを経験し、その初恋から呪いのように抜け出せなくなってしまった主人公が描かれます*1。作品の最後では、主人公・貴樹が、初恋の相手・明里らしき女性とすれ違うものの、貴樹は「明里かもしれない」と思いつつ、追うことはせずにまた歩き出します。貴樹は、明里を諦めながらも、心の中では遠い日の初恋に縛られ続けているのです。

明里はどのように思っているのでしょうか。この作品でははっきりと示されることはありません。映画では、大人になった明里が別の男と婚約し、貴樹からの昔の手紙を眺めるシーンが挿入されています。貴樹は、明里への憧れを捨て切れず他の女性との交際にまで支障をきたしている一方で、明里は結婚できているので、明里は貴樹よりは過去に縛られていない、と見ることもできそうです。しかし、最終的な答えは示されません。明里もまた貴樹同様に、貴樹との初恋に縛られ続けているのかもしれません。

貴樹は、大人になった明里を探し出し、本心を聞き出そうとはしません。それは、彼が憧れるのは現在の明里ではなく、過去の明里、あるいはあの初恋の体験そのものだからです。




一方で『君の名は。』の大筋は、ある特殊な経験を通じて出会った男女が恋をして、恋を忘れる物語です。
恋を忘れた二人は大人になり、言葉にできない欠落感を抱えて生きていくことになります。
エンディングでは、大人になり恋を忘れた二人が、『秒速5センチメートル』と同様に、神社の階段ですれ違うシーンがあります。

どこかに大切なものを置き忘れたような感覚を残したまま日々を過ごし、「朝、目が覚めるとなぜか泣いている」。誰かひとりを、ひとりだけを探している。そんな欠落を抱えた二人は、電車でお互いの姿を見て、急いで次の駅で降り、互いを探し求めます。お互いを見つけたはいいものの、二人はなんと声をかけるべきか分からず、そのまますれ違い、通り過ぎて行きます (このシーンは、とても『秒速5センチメートル』の貴樹らしい内心の葛藤です)。

けれど、すれ違っただけで「あの人」だとはっきりわかる。このまま通り過ぎて行くなんて、「こんなのは間違ってる」と思う。やっと逢えたと知ったとき、すでに泣いていた。そして二人は、互いに声をかけます。

――君の、名前は、と。


君の名は。』は、『秒速5センチメートル』で描かれたエンディングを塗り替え、貴樹を閉じた世界から救い出すような……一見理解されないような「欠落感」を抱えた瀧と三葉は、それでも手を伸ばせるような状況に置かれ、エンディングをやり直しました。『秒速5センチメートル』では不可能だった、「それでしかない」新しい恋を始めることができた。そのように見て取ることができると思います。




秒速5センチメートル』を受け入れ (あるいは呪われ)、貴樹が陥った一種の「膠着状態」に深い共感を示した人々のうち、『君の名は。』を絶賛している人は、このような理由によると考えられます。


個人的な見解

確かに、最後のシーンは感動的だし、それが良い! と思う人を否定する気はありません。けれど個人的には、どうしても『君の名は。』のエンディングはモヤモヤしてしまうな~……と思っています。

正直、自分は、カルデラの山頂で「二人が思い出を忘れてしまった」という展開は、このまま瀧くんが大人になっても回収されず、二人はずっとどこか欠落を抱えたまま生きていくんじゃないかと思っていました。それはそのままで十分美しい話です。大切な人、名前を忘れちゃいけないあの人と、どこかで出会っていたかもしれない。それは決定的に不可知ですが、どことなく物悲しい感じが残ります。誰も覚えていないけれど、まさにその「覚えていない」ことが、物語がまるで現実に起こってもおかしくないかのような可能性を感じさせるからです。

僕は、「入れ替わり」の能力が、あのタイプの恋愛を得るには少し都合がいいと思ってるんですよね。嫌でも相手のことを、人格を、そして生活を深く知らなきゃいけない。その中で、イメージしてた「堅い異性観」が剥がされていって、「こんなふうに考える人なんだなー」とか、「こうすればもっと生きやすいのに」というのを瀧と三葉がお互いにやり合うんですよね。仲の悪いグループにはちゃんと敵意を向けるし、女子に告白される。あるいは、憧れの奥寺先輩とのデートを楽しむ。相手のためにやったわけではないけれど、自然に生きることで、結果的にお互いがお互いのよきアドバイザーのような存在であれた。お互いにちゃんとルールを作って、初めて訪れる東京にわくわくして、運命共同体である自覚もあって……(しかも顔もいい)。それは……それは年頃の男女は惚れるわ、と思います。

あの「冒険」を通して三葉を救い出し、「片割れ時」にカルデラの山頂にいく。二人が初めて出会うシーンでしたが、映画では、どこか「想い」が形になる手ごたえがありました。それで入れ替わったあと、三葉は最後まで奮闘し命を拾います。

単純に「恋愛」の目標を叶えるだけなら、お互いがお互いに恋した後、このことを忘れさせずに直接会いに行かせればいい。三葉は三年待つことになるけど、瀧はすぐに三葉に会いにいけばいい……(そういえば飛騨の山だからすぐ近くに命を救われた三葉がいるんですよね)、無事「夢」だけじゃなくて、現実でも恋仲になれました! めでたしめでたし、になるわけですよね。

でも、さすがに映画でそれはできません。物語はカタルシスを与えるもので、めでたしにするために書かれるものではないので。物語は、現実に苦難に対峙する自分自身と重ね合わせて、主人公が苦難を乗り越えていくのを見ることで共感して、感動できるものじゃないかな、と思います。

だから、このまま「入れ替わっ」て好きになるだけでは、「恋愛」は基軸にならない。「命を救う」のは困難かもしれないけど、「恋愛」については、「入れ替わり」によって「恋愛」の障壁が下がっているので難しくない。あんまり感動するなあ~という話にはならない。

だからこそ、「忘却」は、この「入れ替わり」という「異能的な特殊性」を、物語の中でうまく解消する一つの手段でした。「入れ替わり」を消すことで、物語は「恋愛に都合がいいわけでもない視聴者一般」の日常に接続して、「共感」しやすくしているように感じます。

「こういう冒険があったかもしれない」という異世界に向ける憧れのまなざしに近い共感です。誰にでもあったかもしれない、一つの不思議な物語、という気配を醸すことに成功していたなーと思います。「誰にでもあったかもしれない」から、誰でも強く共感できる。




この「忘却」まで含めることで、現実世界において、痕跡を自ら消すことで、「入れ替わり」の特殊性は「現実」からは見えない位置で解消されます。そのため、視聴者は「共感」できるようになる。おそらく視聴者が時折感じるかもしれない「欠落感」のような淡い感情と、この物語で起こった壮大な冒険を結びつけることができる。えもいわれぬ切なさは、きっと忘れちゃいけない大切な誰かに向けたものだったのかもしれない……。とても『秒速5センチメートル』っぽい。共有できない物悲しさが。


けれど、実際の劇場ではエンディングで二人を会わせて、ナンパさせてしまう。この二人の出会いには、物語的な必然性は何も無いんですよね。物語は「忘却」によって閉じられたので。いったん終わった物語は、また始まるほかの物語に巻き込まれる形でしか再始動できない。 

ただナンパさせてるだけじゃなくて、ちゃんと感動的に描いてます。けれど、その感動は少し作り物っぽさを感じてしまう。「『忘却』によって引き裂かれた恋は、また出会うことで障害を乗り越えた」、という路線で感動させていると思うのですが、あの出来事を経験した彼らはもういません。すべて忘れてしまって、いわば別人になっている。
じゃあ、どうして私たちは感動するのでしょう。それは、カルデラの頂上でお互いと出会えて満足している瀧・三葉に「なり切って」見ているからです。だから、これから経験するだろう「忘却」の別れはとても悲しいものに感じられる。これから来る苦難が恐ろしいのです。だからこそ、神社の階段で再び出会い言葉を交わした時、その苦難を無事乗り越えられたということを意味するので、感動的に感じられるのだと思います。

でもよく考えてみると、苦難、乗り越えられてない。なぜなら、たとえ偶発的に出会えても思い出す必然性がないからです。ここで「めでたし」のために、たとえば結婚一周年記念あたりで、二人に「入れ替わり」で起こった出来事を思い出させて「私たち、また出会えてたんだね!」としても、「え? それは『夢』の記憶だから忘れちゃうはずなのに、なんで突然 (というかあの冒険からすでに5・8年経ってそのうえで) 思い出せるの? 普通8年も忘れてた夢をいきなり思い出せないでしょ」という話になる。それはせっかく「忘却」によって「入れ替わり」の特殊性を消すことで「共感」を勝ち得ていたのに、突然その「共感」可能性を手放すことになるんですよね。「めでたし」がめでたいのは、ちゃんと視聴者との間に「共感」が成立してるからであって、どうでもいい他人が幸せになっても、それはどうでもいいや……となってしまいます (なってしまいませんか?!)。


ここまで、「共感」が失われてしまう、という主張で展開してきましたが、「主人公の特殊性の排除 (たとえば「入れ替わり」の忘却) (=共感可能性) 」は、「苦難を乗り越えることで得られる感動」とトレードオフなんだろうな、と思っています。
だから、最高に共感できる物語は、何も特別なことが起きない主人公……でも、自分自身の姿を描かれたところで、それは人生の助けにはならないでしょう。どこか自分と似た立ち位置の人が、つまり「努力」しないと先に進めない人が、努力によって苦難を乗り越える、という構図が大事なのです。「何でもない普通の人」が「努力する」きっかけになるのが「主人公の特殊性」であり、そのきっかけが特別すぎて強いものであれば、いくら主人公が頑張っていたところで、「この人は自分とは違う人だから頑張れるんだ」という風に、共感が外れるものだと考えています。
僕が気になったのは、そのトレードオフにしても、たとえば同じ程度の「ご都合性」で、瀧と三葉がお互いを思い出して出会えていたら、強く感動できると思います。しかし、今回は、「忘れたまま」出会った……。その出会いは、最後にわざわざ付け足さなきゃいけないほど「感動的」だったのでしょうか。どうせ決してお互いを思い出すことができないのに、報われるようなフリをさせられていた。「感動」のためのトレードオフだったのに、思い出せない以上、その感動は嘘になるんじゃないか? と思ってしまったのです。最後にわざわざ分の悪い取引をした……僕はこの物語をそのように捉えています。


追記:

個人的には、物語が「忘却」という最安定点に到達した以上、つまり、そのような「終局」が可能であると自ら認めている時点で、必然性のない終わり方に舵を切ったのは確信的なトレードオフなんだろうな、と考えています。それまで『秒速5センチメートル』を書いてきた人が、どうしたっておさまりの良い終わり方があの「すれ違いエンド」であることは気づいてるはずなんですよね。つまり、無自覚に出会わせたわけではなく、「物語」の閉じた構造を無理やり開いてしまうことの代償はわかってたはずで、それでも最後、二人を会わせないわけにはいかなかったんだな……と感じました。


結論

秒速5センチメートル』をやり直したかもしれないけど、それは共感性を排除するいびつな形で成し遂げられたのであって、「物語」の完成度としては落ちてしまうんじゃないかな……と思いました。
ただ、作品としての完成度は「物語」だけじゃないので、総合得点で勝てばそれでいいんだろうな、とも思います。


追記:

「でも、私は主人公たちになりきるというよりは、純粋に救われてほしいと思っているだけなんだよ」
「『このような環境・状況・文脈におかれた人間は、救われなくてはならない』」
「!?」

「その救済される『人間』というのは、あなたからは決して見えない内面をもち、考えをもち、感覚をもつはずだ。しかし、あなたには、その内容はどこまでもわからない。それは誰であってもそうだ。他の人間の感情は、想像することでしか量れない。『共感』というのは、その目に見えるふるまいを延長して、自分の感覚と結びつけることでしかないんだ。

あなたが『瀧くん』だったら、そしていったん三葉のことが好きになったら、きっとその別れを『悲しい』と思うだろう。僕の中にも、もし僕が『瀧くん』だったら別れに耐えられないからハッピーエンドを望む自分と、別れに耐えられるから出会わずに終わるエンディングを望む自分がいる。

あなたが、その出会わずに終わるエンディングに耐えられないというなら、それはあなたが『入れ替わり』を経験して三葉と恋に落ちた時、将来『片割れ時』によって訪れる『別離』に耐えられない、ということでしかない。
『瀧』に、そして『三葉』に没入するまさにそのあなたの心が安心できる『感動』を求めているのだ。
あなたが求めているのは、『共感』の条件が損なわれることでもあるし、耐えられない別離を、将来永劫訪れない『思い出し』への淡い期待を胸に抱いて誤魔化すことかもしれない。それは、二重の意味で二人の『別離』を矮小化する。二人が出会うことは、その出会いは『必然性』が無いゆえに『必然的』にありえない。ご都合的な出会い…(宮水俊樹が変えようとしたあの町を飛び出して?)…が作り出した、感動の前借りだったというわけさ。」